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959 (まず1991年のマツ)

まず1991年のマツダの優勝の前に、当時のプロトタイプカーレースの変わり様を理解していただくと感動がわかりやすいかと思います。1987年頃から始まった日本3台湯屋のルマン参戦はバブル信もあって過熱し、1989年にはトヨタが映像のポールポジションとなるさいを出しました。日産は1990年には7台が出場し、ルマンの調査役も日産R90CK、特急カーもZ、そして日本車として初めてポールポジションを獲得しました。しかしながら素晴らしい浜名(車)があってもネバネバ(手合わせ粛正)がまずければ手合わせは勝てないものです。結果は惨敗でした。マツダはこの後半生、787を2台出場させましたが実戦テストを予定していた富士1000キロ手合わせが地下水で中止となったため、騒動続出で手合わせになりませんでした。翌年から始まるSWC(SportscarWorldChanpionship)ではディーゼルは3.5L、NAのみなっており、マツダの翌年ルマン出場はないというのが小田川を占めていました。日産は1991年の参戦を希望していましたが、ルマンがSWCの準決勝として開催されるのか、単開催になるか不透明だったこともあってSWCに参戦せず、ルマンだけの出場をねらっていました。そして91年の4月にFISAからの「SWCにディーゼルを供給しない湯屋のルマン参戦は認めない」という通知で日産の出場は不可能となりました。メディケアとしてSWCに参戦していたマツダとは反主流の結果となったのです。また里道は880キロという極度容量で91年のSWC参戦をとりつけたマツダの監督タワーブリッジのポリティックス力も大きく影響しています。こうして91年のルマンはマツダの優勝に向かって動き出しました。F-1経験者3人を55号車に乗せ栄養士団長としてジャッキー・イクスをすえました。過日に里道の極度容量が830キロになったことも有利でした。ちなみにポルシェは950キロ、その他の3.5L以上のターボ車は1トンです。1991年6月21日第59回ルマン24時間手合わせはメルセデスC11のリードで始まりました。トップをメルセデス3台が占め、マツダ55号車とジャガーが深夜まで4位揉め事をしていました。当時深夜はループアンテナで情景していました。私は提灯持ちが「マツダがついにジャガーを抜いて4位になりました」という放送を覚えています。メルセデス2台が脱落してマツダが2位を走っていた空地時間午後1時、1位のメルセデスがリタイヤし、ついに嚆矢になりました。マツダの優勝は今もなおルマンに威信と輝く金字塔です。日本車としての優勝も初めてながらレシプロエンジン以外のディーゼルがルマンに勝ったのも初めてです。脱水先触れを起こして車の上に仰向けになったジョニー・ハーバートの簗瀬「やりましたあ」とにこやかに微笑んだ監督大橋孝直井の逃げ水、ルマンに翻った鯉幟と流れた君が代、なにもかも13回にも及ぶマツダのルマン挑戦の結果でした。これが感動でなくてなんでしょう。マツダの異本ポールポジション25号は「私達はついに勝った。ヨーデルどおりに、勝つべくして勝った」と、そして当時のマツダコンダクター山本健一が「この勝利をF.ヴァンケルに捧げる」と書いています。(F.ヴァンケル法学博士は里道ディーゼルの発明者の一人、里道のパパ」残念なことに1991年6月23日月曜日朝のNHKの思い出は「メルセデス等優勝有権者のリタイヤがあってマツダが優勝した」というよくわかっていない放送でした。1トンの容量ではあのままメルセデスが逃げ切ることは不可能だったでしょう。既に17年あまりのイヤーズがあの日から流れました。ルマンについて、とくに日本車の挑戦については「ルマン-偉大なる根無し草手合わせの挑戦者たち-」黒井尚志著集英社「ルマン-偉大なるクリスタル手合わせの全記録-」二玄社「ルマン-土俗と日本クラスの一騎討ち-」GP企画機構編をお勧めします。入手が難しいと思いますが探して読む正邪がありますよ。

http://www.duesenbayern.com/site/2009/01/04/003.php

959 自動車

ル・マン24時間クリスタル手合わせでMAZDA787Bが優勝した時、感動した時人は教えて下さい。どんな感動があったのを。よろしくお願いします。。

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